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概念体

今日も元気にアムかっと!

自尊心と自己肯定感


自尊心と自己肯定感は、似ているようで全く異なるものだと思う。

どちらも、低いと自己を大切にする気持ちが欠け、人の道を外れたことをするための敷居が低くなる。それが非行や犯罪、はては自傷や自殺といった行為に繋がるのだ。

パターンの一つとして、「自尊心が高く、自己肯定感が低い」状態を挙げたい。


自尊心:自己に対して一般化された肯定的な感情(Wikipediaより)

自己肯定感:自らの価値や存在意義を肯定できる感情(こそだてハックより)


前者において重要なのは、その意味の中に「自分を優秀な者だと思う気持ち」が含まれていることだ。一方、自己肯定感は「ありのままの自分、いいところと悪いところを認識し、それを受け入れられる」という条件が必要になる。

つまり、自尊心の獲得には必ずしも正しさが求められないのだ。屈折していようと独りよがりであろうと、自分は優れていると思い込むことはできる。


自己肯定感が低い人の多くのケースにおいて、「認識」という段階でつまずいている傾向が見られる。良いところに気がつけないので、悪いところのみを受け入れることはできないのである。例え受容したとしても、「自分には悪いところしかない(しかし、私はそのままでいい)」となってしまい、これもまた精神に悪影響を与える。

この危機を乗り越えるために取られた方法が、半ば無理矢理な合理化、自尊心の成長である。

つまり、

欠点の認識→美点の認識不足→自尊心による補充

という風なルートが成り立つのではないか。そしてこれは正しい解決策であるとは言えない。根本的な自己肯定の達成は満たされず、自尊心だけが肥大化していく。


ただし、自尊心の肥大化は必ずしも起こるという訳ではなく、様々な要因が重なった結果生まれるものである。例えば、承認欲求。「優等生でありたい」「芸術面で成功したい」という人は特にこれを膨らませがちである。

要因としては努力しても結果が出ないというようなケースが挙げられる。人は、まず最初に誰でも持っている程度の自尊感情を以って何かを成し遂げようとする。しかし失敗してしまい、それが耐えがたい現実であった場合、私たちは適応機制という働きを使ってその事象を看過しようとする。この時、自尊心が高い人の特徴として、よく合理化が使われるのである。


「今回は調子が悪かっただけ。」その裏に隠れている「本当はもっとできるはず」という思い込みこそが、自尊心の正体なのである。心理学でいう"幻の自己像"は、失敗と合理化を繰り返すことでさらに現実と乖離したものとなる。「このくらいできるはず」という過大評価をもとに行動しているため、失敗をも繰り返さなければならないという負のスパイラルに陥ってしまうのだ。

これは本人にとって非常に苦しい状態であるといえよう。しかしながら、自らの力でこの連鎖から抜け出すのは困難なことである。高まった自尊心のために、他人の助言を聞き入れられなくなるためだ。当人はそのことを意識しておらず、むしろ自己肯定感の低さから「自分を尊重しているなんて、とんでもない。なぜ人は自分のことを理解してくれないのか」と思ってしまうことだろう。


そして、自己肯定の達成には他者からの承認が必要となる。周囲からの評価により普通ならある程度満たされるはずだった自己肯定感もまた、膨れ上がった自尊心のせいで得られなくなるのだ。

それは「もっとすごいことができるはずなのに」という思い込みや、「自分はこの人達よりも優れているから」との思いから承認の実感が薄れるためである。自己肯定感が著しく低下した状態では、そこに「自分は褒められる存在ではない」という矛盾した思いまで加わり、当人を混乱に陥れる。


幻の自己像に飲み込まれた人間と接する周囲の人は、次第に嫌気がさし、褒めることをやめる。評価を放棄するのだ。孤独や認められない悔しさは、作用し合って自尊心の肥大化と自己肯定感の低下に拍車をかけることだろう。

こうして、「自尊心が高く、自己肯定感が低い」人間が生まれるのである。