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概念体

今日も元気にアムかっと!

新海誠作品と「魂の友達」についての話

秒速5センチメートル君の名は。ネタバレあり


一応保身のために言っておくと、これは「私」の話であって、批評とかなんとか、そういうものじゃない。
精神的な友達のこと、なんて呼べばいいのだろう。「友達」なんかじゃ表せないほどの熱量と希望を孕んだ人間のこと、なんと称すれば、納得がいくだろうか。それは恋人同士にも似ていて、或いは家族、いや、双子のような。そういえば、ソウルメイトって魂の友達という意味だった。私にはそういう人がいた。相手もそう思っていてくれたはずだ。とにかくそれくらい大事な人に出会うことができたことを、本当に恵まれていると思うし、本当に幸運だったと思う。そんな人には巡り会えないままで一生を終える人もたくさんいることを知っている。それもまだこんな若いうちに見つけられるなんて、奇跡みたいなことなのだ。 何が書きたかったんだろう、なんだかそれもよくわからない。
私は新海誠が好きだった。
初めて秒速5センチメートルを見たとき、私は大げさでなく、心が震えるほど感動した。あの桜の、絵画のように美しい作画、ぽつぽつと落とすように語られる言葉、あまりにもリアルな街の描写。
空気を描く。ということが、この人にはできるのだと思った。心を描く。ということが、映画にはできるのだと思った。

君の名は。を映画館に観に行ったのは9月のおわりのことで、私は本当にそれを楽しみにしていた。Twitterやネットをよく見るけれど、不思議とネタバレを見ることはなかった。ほとんど前情報はなしだった。
見終わった瞬間、胸の中に泥の色をした薄い膜が張られているような気持ちになった。 何だこれ。ずっとそんな疑問だけがぐるぐる渦巻いていて、何にもなれない感情が、でも今にも爆発しそうなくらい、
私は新海誠が嫌いだった。 誤解しないでほしい。これは作品を受け取る側の問題だ。「私」の話だ。新海誠やその映画をを悪く言いたいわけでも、そのファンを攻撃したいわけでもない。ただ私には、無理だ。その気持ちがどこから来るのか、まだ薄ぼんやりとして分からない。あと私は上記2つの作品しか見ていないから、他の作品についてはどうとも言えない。
ただ、リアルすぎるのだ。
秒速〜の時も、じっと解釈を考えていたら死にたくなるような気がした。あれはバッドエンドじゃないってみんな言ってる。どうして?と思った。私はあれを快い気持ちで観ることはできない。
魂の友達。桜花抄での彼らはまさにそういう関係だったのではないか。私と重ねて見てしまったのもきっとある。でもそれでも、あんな終わり方をするのは、「フィクション」じゃない。物語になれない。そう思った。
たまたま、彼らが男女だったから「恋愛もの」として見られただけで、彼ら自身もそうなっただけで、私にはあれは魂の友達のゆくえを描いた話なのだと思えてならない。明里が結婚することも、貴樹が交際をああいう形で終えることも、本当はただの置き物みたいなもので、だからお互いが恋人をつくってもそれほど深い罪悪感もなく、貴樹は明里の影を追い続けられたのではないか。二人の関係性の本質が「魂の友達」だったから、他の恋人によって決定的ななにかが壊れたりはしなかった。ただ、少しずつ少しずつ綻びを生むに留まっただけで。 クラスメイトに色々なことを言われたり、苦しいことがあっても耐えられたのは、彼らが共依存のような支え合いをしていたからなのだと思う。そして距離が開くほど、時間が経つほどにその関係がじわりじわりと解けてしまうこともまた、恐らく二人とも予感していた。
「魂の友達」の終わり方は、普通の「友達」の終わり方とは違う。 嫌いになるわけじゃない。ただどうしようもないところで、魂の友達を持っていることが苦しくなる。それは会えないことだったり、他の「友達」と接していても楽しくなくなってしまったり、離れたくないがために膨大な感情を抱え込んでしまったり。その苦しさの積み重ねが、魂の友達を終わらせるのだろう。そして魂の友達は、「決して嫌いになったわけじゃないから」その終わりのときを明確にはしてくれない。じわじわと終わりに近づく波が、もうほんとうに戻れないところまで来てしまった瞬間が、見えない。見えないから、終わっているのに終わっていることにも気づかず(或いは頑なに気付こうとせず)、「どうして、どこからこうなってしまったんだろう」という思いだけが積もっていく。
新海誠はきっと、それを描いた。
だから私はこんなにも胸糞が悪くなるような思いになったのだ。
それはフィクションの世界に持ち込んで成立するようなものじゃないと思った。それは私にその感情の機微を描写する能力がないからとも言えるし、それは申し訳ないことだ。私が知らないだけで「魂の友達の終わり方」を描いた作品は他にもたくさんあるのかもしれないけれど、私はそのどれも観る・読むことはできないだろうと思った。心がズタズタに裂かれていくような気になる。「どうしようもないこと」の頂点をこんなに美しい絵で表現して、それが私は反吐がでるほど嫌いなのだ。
間違いなく新海誠は素晴らしい監督だと思う。 君の名は。を見終わった後、こんなもやもやと同時に、「新海誠人智を越えた神だな」と思ったのだから。ストーリーも絵も何もかも完璧。全てがあまりにも美しいから、心が千切れそうなほど切なくて、リアリティにかけては右に出る者はいないと思う。本当に、美しいのだ。
君の名は。について書くと、私はSF映画やアクション映画が心底苦手な性質なので「もう見るなよ」って感じはするだろうけど、(正直ちょっと怖かった)それでも本当に綺麗だし、やっぱり本当に感動した。それで、あぁ瀧と三葉もまた魂の友達だったのだろう、と思った。これに関してはあまりにも特殊な状況が絡んでくるけれど。
冒頭の言葉、「ずっと何かも分からない何かを探していて、朝起きると何かを失ってしまったという感覚で涙を流している」という描写からもう私は心がズタズタになっていたのだけれど。「どうにもならないもの」が、私は大好きで大嫌いなんだ。でも多分、記憶どうこうを抜きにしても、魂の友達が終わる頃や終わったあとの感覚ってこれにとても似ていると思った。お互いにとっての相手は、自分の半身なんてものよりもっと深い、自分と溶け合った部分だったと思うのだ。心にぽっかり穴が空くとはよく言うけれど、それよりか、全身が穴になってしまった感じ。自分が薄くなってしまった感じ。それが、大人になった瀧や三葉、そして貴樹なのだろうと。
「魂の友達」という感覚は、なかなか言葉に表せない。便宜上ここではずっとこの表現を使っているけれど、これでもまだ何か違う気がする。「自分と誰か」のその関係性を他人に伝えることはもっと難しい。喪失感ともなにか違うような魂の友達を失ったあとの人生の薄さとか、そういうものも、何も知らない他人に伝えることは難しい。
突然涙が出てくることがある。なにもないのに、心の病気なんてものなわけもないのに、ずっと苦しい。 誰にも理解されないから、一度この喪失感を持ってしまうと身動きが取れなくなる。理解してくれるのは唯一魂の友達だけだったのに。
こういう感覚を、大衆に伝わるような形にして表現した新海誠はやっぱりすごいな、と思うし、それはやっぱりフィクションにしてはいけないと思う。恋愛映画という肩書きをつけてほしくないけれど、他にジャンル分けできないような気もする。
なんか、新海誠の映画に限らずだけれど、こういう思いにとらわれたことのある人って、いないのだろうか。まだこの気持ちを上手く表せなくて、ずっともやもやしています。そういう話でした。